『打ち上げ花火、下か見るか? 横から見るか?』感想と個人的解釈――酷評するか? 擁護するか?

 

困惑と悪評

 8/18に公開され、公開当初からネット上などで(かなり控えめに言って)賛否の分かれる作品として話題となっている『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』観に行きました。

(原作となるドラマはまだ観ていませんが、この文章を書くにあたってノベライズ版を一応読みました。こっちは正直あまり面白くなかったです。やっぱり映像でこそ映える作品じゃないでしょうか)

 

 

 夏休みだけあって、若年層を中心に様々な層の観客が来ていました。

 

子供連れの夫婦、リア充カップル、眼鏡にチェック柄の今どき珍しいぐらい古典的なアニメオタク、恐らくは原作ファンと思われる40代50代ぐらいの客までいろいろ。この映画の負っている期待の大きさを感じました。『君の名は。』の成功も記憶に新しく、デートムービーとしての機能を求める客も多かったのでしょう。

 

しかし、上映終了後の観客たちの反応は、一言で言えば「困惑」。どういうこと? どういうこと? と聞く娘に「いや俺にも分からん」と応える父親、これは脚本に問題があるねえ、などとぼやいて苦笑するチェック柄アニメオタク、「ドラマとは違うよねえ……」と溜息交じりに感想を言い合う40代夫婦、明らかに気まずい雰囲気のままに劇場を後にするリア充カップル……各各「よく分からないものを見ちまった」という雰囲気を共有したままに、皆そそくさと劇場を去っていく様子は、明瞭にこの映画の「失敗」を物語るものだったように見えました。要はどういう客層の、どういう希望にもうまく応えることができなかった、ということです。このいかんともしがたい宣伝のイメージとの乖離、期待外れ感は確かにネットの評判通りです。

 

この映画は、実際には「考察」と称する妄想を得々と語ることを趣味としている連中向けの映画であり、説明不足をあえて楽しむような類の映画であり、エヴァンゲリオンみたいな「意味深」がずらりと並べられた映画です。

そしてこれ、僕は嫌いじゃないです。というか好きです。勿論、この映画が映画として多数の問題を抱えた、あまり出来の良くない作品であるというのはその通りでしょうが、しかし、それを補って余りある魅力を秘めた作品でもあると思っています。(まあ、これも原作のことを知らずに観たからから言えるだけのことかもしれませんが……)

以降激しくネタバレします。

 

超絶美少女・なずな

 この映画、兎にも角にもヒロインであるところのなずながもう滅茶苦茶にかわいいです。かわいいだけでなく、ちょっとエロチックです。序盤からスクール水着姿を披露したり着替えシーンがあったりと、サービスには事欠きません(これ、きっと女性客はドン引きしたんじゃないでしょうか。ファミリー映画としてはこの時点で失格でしょう)。広瀬すずさんの声も、また何やら底知れぬ色気を漂わせています。個人的には、同じくシャフトが制作したアニメ『化物語』に出てきた戦場ヶ原ひたぎというキャラクターを思い出して、ちょっと懐かしい気分にもなりました。どうでもいいですが。

 

花火は丸いか平たいかなどというバカらしい言い争いに夢中になる男子どものガキっぽさに比して、彼女はどこか中学生離れした、オトナの雰囲気をもっています。単純に典道くんより背丈が高いというのもありますし、水泳では典道くんより祐介よりずっと速く泳ぎ、また「家出」を「かけおち」と言い換えたり、ワンピース姿を披露して「16歳に見えるかな」と呟いてみたり。典道くんたちにとって、彼女は自分の知らないオトナの世界に足を踏み入れた少女として、どこか超越性を帯びた女神のような存在として立ち現れます。

 

しかし、彼女が彼らにとっての女神たりうるのは、実は家族問題から逃げ続けている限りにおいてです。やっぱり中学生は親の重力に逆らえないのです。母親に腕を掴まれたなずなは、これまでの描写とはうって変わって、激しく暴れ抵抗します。力負けして親に引き摺られながら「助けて、典道くん」と叫ぶ姿は、オトナとは程遠い、幼い女子中学生の姿そのものです。で、それを見た典道くんは、彼女の誘いを無碍にしておいて、平気な顔で彼女が連れ去られていくのを傍観している祐介をぶん殴り、時を巻き戻す力(?)を秘めていると思われるもしも玉(?)を花火大会のポスターに投げつけ、タイムリープ開始というわけです。

祐介の言動にもまたちょっと不思議なところがあるのですが、それは置いておくとして、個人的に注目したいのは、この決定的に物語が動く場面において、なずなも親という現実を前に一人の子供でしかないという強烈な印象が与えられている点です。

 

彼女が綺麗でいられるのは「家出」「かけおち」という可能性、「もしかしたら」という期待の世界の中を生きているときであって、現実がそこに追いついたとき、彼女の超越性はたちまち消失してしまう。ここから、美しい未開の可能性と酷薄な現実、という構図が立ち現れ、典道くんとなずなは、その現実を振り切って、可能性、「もしかしたら」の側へと逃避行を続けていくことになります。

 

現実から遠く離れて

 原作がどうなのか知りませんが、この映画、ストーリーは本当につまらないです。まずタイムリープの設定がほぼ説明されず、いったい彼らがどういうルールの下に何をやっているのかという基本的な部分すら理解しがたいつくりになっています。これは本当に観ていてストレスでした。というか、そもそも映画の根幹を成す典道くんとなずなの関係性もうまく描けておらず、ふわっとした「意味深」な台詞でしか説明されないため、物語として足腰が弱く、タイムリープの動機も衝動的なものでしかなくなっているところがあります。

 

ではこの作品の魅力は何かといえば、タイムリープを行えば行うだけ、映像的にも物語的にも、その虚構性が増大していくという構造にあります。歩道と草原の間の溝を飛び越える、プラットフォームから電車に飛び乗るなど「越境」のイメージが作中何度も強調されるように、彼らが「もしこうだったら……」を積み重ねるたびに、美しく幻想的な世界はその奥へ奥へと彼らを誘い、現実は母親や祐介たちと同じように、どんどん後方に遠ざかっていく。

 

最初のタイムリープではせいぜい打ち上げ花火が平たくなる程度ですが、次のタイムリープ以降はいよいよ現実離れし始め、なずなが歌を歌うと窓ガラスにお姫様の恰好をした彼女が映ったり、どこからともなく馬車が出てきたり。挙句に電車で海を渡り、「典道くんの作った世界」、彼らにとってもっとも都合の良い世界にまで行ってしまう。今まで自分たちを追ってきた祐介や母親のような邪魔者はもう追ってきません。願望の終着点、他者を排除した二人のセカイ。この辺はとてもスリリングに仕上がっていて、観ていてどきどきしました。

 

しかし平べったい打ち上げ花火が存在しないように、彼の作った世界は所詮幻想でしかありません。ふとしたきっかけでもしも玉(仮称)は花火として打ち上げられてしまいます。もしも玉(仮称)は膨張して破裂し、そして各々の「あり得たかもしれない幸せ」が破片として降ってくる。本編最大のクライマックスです。幻想が極致に達したところで崩落する、という構成が素敵です。この映画のモチーフである打ち上げ花火の儚さとも重なりますし。

 

例のラストシーンをどう解釈するかにもよりますが、この映画は実は非常に古典的な「行きて帰りし物語」だと思います。越境と帰還というイニシエーションを経て、何かを喪失し、何かを得て「成長」する物語。「成長」が、開かれた可能性の中から何かを選び取り、他の可能性を喪失していくプロセスであるなら、それには常に「あのときそうしていれば……」というifへの憧憬が付きまとうはずです。ならば、そのifへの憧憬の象徴たるもしも玉(仮称)が砕け散り、典道くんがその破片の一つを手にするというシーンは、まさにひとつの「成長」の比喩に他ならないでしょう。

 

また同時に、もしも玉(仮称)の別の一欠片を見た典道くんの友人たちは、それぞれの恋を大声で叫びます。「あり得たかもしれない幸せ」を、単なる後悔やセンチメンタリズムではなく、未来への可能性という形で描いたところにもこの映画の良さがあると思うのですが、どうでしょうか。

 

この映画最大の謎、ラストシーン

 そしてラストシーンです。典道くんの不在。草原に揺れる薺。

 

この幕切れはちょっと不気味な印象もあり「典道くんはifの世界から帰ってこられなくなった」と考えている方も多いようですが、僕としてはこれはちょっと違和感のある解釈です。

だって、もしそういうことにするならば、普通に考えて、事前にそういったリスクやペナルティを暗示、ないし予感させる場面が入るはずだと思うからです(あるいはあの水死体のシーンなどがそうなのかもしれませんが……)。そして「危険を冒してでもやり直すべきか」という典道くんの迷いや躊躇いがあってしかるべきでしょう。そうでなければ、この作品は、典道くんがただ単に後出し的なルール、理不尽な怪奇現象に終始振り回されていたというだけの、全く意味不明で虚無的な恐怖映画になってしまいます。

 

美しいifを生み出してきた装置であるもしも玉(仮称)は花火として破壊されてしまったはずですから、もうみんな現実の世界に戻ってきたんじゃないだろうかと僕は思います。だからなずなは既に転校してしまっていて、もういない。そもそも、なずなは典道くんより先に呼ばれるはずなのに、名前を呼ばれてもいないわけですし。

一方で、典道くんはあのとき破片のひとつを手にしています。即ち二人の幸せな未来。

 

といって自分の解釈にもまったく自信が持てないのですが、これもやっぱり、典道くんはもしも玉(仮称)のない世界の中で、それでも目指すべき未来を見つけた、ということじゃないでしょうか。だから、転校したなずなを追いかけに行ったのではないか。過去への可能性を喪失し、未来への可能性を手に入れたということなのではないか――ちょっとハッピーエンドの方向に寄りかかり過ぎた理解でしょうか。

 

最後に

 とは言ったものの、この映画が酷評されている理由はよくわかります。変なところで分かりづらいし、キャラもうまく描けているとは言えないし、間延びした演出は多いし、テンポも悪いし、声優棒読みだし――僕も、映画として質が高いとは決して思いません。

 

しかし、僕はやはりこの映画が好きです。前述したように、まったく万人受けする映画ではありませんが、ハマる人は本当にハマる、宣伝に反して、とてもニッチな映画だと思います。