2017年夏期観たアニメの感想・評価まとめ

  

今期最後まで観たアニメを書き出してみて、思わず「少なっ」と声に出してしまうぐらい今期はアニメを観ませんでした。自動車講習があったり母が病気でぶっ倒れたりいろいろ大変であまりアニメ観てる余裕がなかったというのもありますし、まあ個人的に興味のある作品が少なかったというのも事実です。Fateシンフォギアもつまらなかったというわけではないのですが、妙にアウェー感というかついていけなさを感じてしまって、途中で観るのをやめてしまいました。とりあえず今期観た6本(少なっ)の感想を簡単に書き留めておきたいと思います。

 

アホガール:75点(今期ベスト)

率直に言って非常に面白かったです。変な奴がいっぱい出てきて変なことをやりまくる、最初から最後までギャグに徹する潔さ。夜の校舎のワクワク感を描いた9話は特に好きです。

しかし、彼女たちの「アホさ」に、妙に現実的な生々しさ(端的に言えば学習障碍、発達障碍に近いもの)を感じてしまう場面もあり、特にあっくんの妹瑠璃ちゃんのエピソードは、何かおかしさよりも痛ましさのほうを強く感じてしまって、個人的にはちょっと素直に笑えませんでした。11話で彼女が「実は私は何もできない子なのではないか?」と疑問に駆られる一連のシーンはかなりきつい。

あと栄村茜ちゃんが個人的にすごく好みです。9巻の百合エピソードをアニメで観られる日を楽しみにしています。

 

アホガール(9) (週刊少年マガジンコミックス)

アホガール(9) (週刊少年マガジンコミックス)

 

 

 徒然チルドレン:70点

SNSでいつでも繋がれる時代になっても、恋愛のもどかしさは不変。全てのエピソードが際立って面白い8話、初めて真面目にテストを受ける不良少女の不安を描いた11話が好きですね。「普通に良い」という常套句がぴったり当て嵌まるというか、あまり語るようなところもない作品です。ラブコメ好きなら概ね誰でも楽しめるんじゃないでしょうか。

 

捏造トラップ-NTR-:65点

徐々にエゴを剥き出しにしていく由真と不敵な誘惑者としての蛍、ミソジニーを体現するような男藤原と善良であるがゆえに裏切られていく武田……それぞれ全く異なる価値観を有する彼等のスリリングで破滅的な関係性が面白かったです。ただ、同性愛というものを何か堕落や不健全さの象徴として配置してしまうような構図はやっぱりちょっと差別的というか(今やすっかりイヤな言葉になってしまいましたが)所謂「ポリティカル・コレクトネス」の見地から言ってどうなんだろう、と思わなくはないです。

 

異世界はスマートフォンとともに:45点

ある意味今季最大の注目作ですが、実はこれ、個人的にはそれほど酷いとは思っていません。勿論積極的に評価したい作品ではありませんが。

自らは何も欲望せず、ただ受動的に神の恩恵を享受し続けるだけの望月くん、しかしそんな彼が最後には「流されるままでは駄目だ」とはっきり言い、主体的に人生を歩もうとするというのは、これはこれでひとつの成長物語としてアリなんじゃないかなとは思いました。あと琥珀がかわいい。

 

スカートの中はケダモノでした。:15点

女装して女を襲う悪質な強姦魔に惚れる主人公。早く通報しろよ。

 

Re:CREATORS:15点(今期ワースト)

個人的には迷いなくぶっちぎりのワースト*1。というのも、このアニメ22話の中には僕の嫌いな物語的要素――ポエム、演出過剰、無駄死に、押し付けがましいメッセージ性、欺瞞的解決――が全て詰まっているからです。

このアニメに関してはもう問題があり過ぎてここでいちいち指摘はしませんが『Re:CREATORSを観ていて僕が終始思うのは、とにかくあらゆる面で「ダサい」ということです。物語しかり、演出しかり、台詞回ししかり。そして、何より「ダサい」のは、このアニメ全体が内包している鼻持ちならないメッセージ――即ちこの物語の全てが結局はクリエイターの自己慰撫、自己弁護に帰着してしまう、ということでしょう。

あ、まあでもOPとEDはどちらも良いです。何というか、そんなところでしょうか。

 

*1:いくら何でも「ケダモノ」よりはマシじゃないかと言われるかもしれませんが、宣伝費の違い、また「ケダモノは1話数分で終わる」「エロという最低限の需要には応えている」というあたりを考慮すると、やっぱりこれがワーストかなあという気がします。すごく低レベルな話ですが

「リベラル」の悪いところを寄せ集めて煮詰めたような小説――中村文則『R帝国』について

 

中村文則氏の最新作『R帝国』を読みました。前々作『教団X』の余りの惨状ゆえ、それと同路線と思われる今作の出来映えもまあ推して知るべしといったところでしたが、結論から言えばその悲観的予想を更に下回る内容で、ある意味では衝撃的でした。

まずは帯のあらすじを引用しておきます。

 

朝、目が覚めると戦争が始まっていた。近未来、独裁政権下に生きる2組の男女。彼等の運命の先にあるのは、幸福か絶望か。やがて、物語は、世界の「真実」に辿り着く――。

 

  

キスして……くれないか

本書を読んで、私が一番に胸に抱いたのが「読んでるこっちが恥ずかしい」という感情です。とにかく何もかもが陳腐で品がなく、かつて純文学作家として『掏摸』や『土の中の子供』(これらの作品は私も好きです)などを書いていた頃の面影は、もはやどこにも見当たりません。

具体的に言えば「六本足で動く巨大兵器、AIが粗雑なので大きなものから順に狙っていく」とか「特定の人種にだけ毒性を発揮するウイルス」とか、幼稚園児のおままごとのようなSF設定の数々。

加えて文章まで幼稚そのもので、たとえば主人公と親しくなった敵国の女性兵士が死を覚悟する場面は以下のような感じになっています。

 

「……矢崎」アルファの目がうっすら開き、呟くように言う。

「キスして、……くれないか」

「え?」

 アルファが弱々しく笑みを浮かべている。

「私は、ずっと、銃を持って、……暮らしていた。……ヨマ教の、私の宗派は、婚前交渉を、禁止されている。……だから、そういう、経験がない。……幼少の頃の、その片思いだけだ」

矢崎はアルファを抱き起こし、キスをする。一度唇を離した後も、矢崎はもう一度キスをする。矢崎とアルファの目に涙が滲んでいく。

「……これが、恋愛というものか」

アルファが矢崎を見つめて微笑む。

「……いいものだな」

 

とまあこんな気の遠くなるようなチンケなメロドラマをあちこちに配置してくるため、中盤あたりでもう読むのが辛くなってきます。その後も目を疑うような拙劣な文章表現が続き、挙句、政府の黒幕的な存在である人物を「異様にIQが高い」などと書くに至っては失笑を通り越して憤りさえ湧いてきました。だって1600円で売ってるんだぜこの文章。

ちなみに、そのアルファさんの死に様は以下のような代物です。

 

アルファは全身の力を使い、筒状の兵器を型に担ぎ上げる。

足はふらついたが、立てている。炎の最後のようだ、とアルファは思う。複数のR軍機が旋回する。アルファに向かってくる。

やはり無人機。アルファは思う。有人機はひとつもない。アルファは無人機の群れに向かって叫ぶ。

「女一人にみっともないな」兵器を構える。

無人機ばかりだ。臆病者め!」

これが私の最後だ。アルファは思う。個人の力を見るといい。

「おおおおおおおお」

 兵器のフックに腕をかけ、全身の力を込めて引く。衝撃でアルファの身体が後ろに飛ぶ。兵器から出たミサイルは上空に飛び、さらに五つに分裂しR軍機に向かう。

 

おおおおおおおお。

 

  移民GO

 この小説はディストピア小説、風刺小説でもあるわけで、現代日本社会を皮肉ったらしい記述が頻出します。それはそれで良いのですが、どうもこの小説の場合、その「風刺」自体、相当に公平性を欠くと言うか、中村氏の偏見によるとしか思えないものが散見されます。

特にソーシャルゲーム。私はあまり熱心なプレイヤーではないのですが、いくら何でも冒頭の死刑囚の徹頭徹尾紋切り型の描写とか、どうなんでしょう。極めて不快でもう引用したくもありません。「ソーシャルゲーム相手なら適当に描いても構わないだろう」という中村氏の態度が本当に気に食わない。

 

まあ個人的な不快感を置いておくとしても「これはマジで問題だろう」と思うような箇所も少なくありません。

 

そういえば、ママ友達が言っていた『移民GO』というゲームがあるらしい。

なぜか登録移民の住所がいくつかの役所から流出し――役所は会見を開き頭を下げ謝罪した――その住所が地図上に表示され、プレイヤーが実世界で、実際に移民を見つけにいくのだ。流出したデータを元に誰かが作成し、ネット上にフリーソフトとしてアップされた。

移民の住む場所でボタンをタップすると、その実際の移民の姿をアニメ化した画像を「手に入れる」ことができる。その移民を「敵/的」として射撃ゲームができるのだ。つまり、プレイヤー達は射撃ゲームの的を手に入れに、実在する移民の住む場所に向かっていく。ゲームには普通敵が用意されているが、そのゲームではプレイヤーが敵を手に入れていく。

 

中村氏がどういうつもりでこんな記述を行なったのか私の知るところではありませんが、こんなのは「風刺」としても最低だと思いますし、任天堂や某ゲームのファンは作者や出版社に抗議の電話の一本でも入れていいんじゃないかと思います。……まあもっとも、仮に抗議されたところで中村氏は「物言えぬ社会」などと称する文章をリテラあたりに寄稿して被害者面をするのが目に見えていますが。

極めつけはこれです。

 

まず文化全体のレベルを、一見わからないように少しずつ下げていくこと。くだらない者に人々が熱狂するくらい、文化的教養を下げていくこと。本来学歴と教養は関係ないが、例え高学歴な人間であったとしても、教養という言葉に虫唾が走るようにすること。

 

よく恥ずかしげもなく書けたもんだなと思います。適菜収かよ。

勿論他にも許しがたい記述は山のようにあります(アニメを揶揄したようなものもありますが、これにしても最早不快すぎて引用することすら苦痛です)が、まあこのように、この小説のテクスト自体が偏見や陰謀論的な思い込みに支配されてしまっているために、後述するように「多様性」というテーマの説得力も致命的に損ねてしまっているように思います。 

 

「多様性」は何処へ

本作で非常に印象的に使われる言葉が「多様性」です。ご丁寧に冒頭14ページから太字で強調されています。

 

画面にそのメッセージが表示される。無機質な、アルファベットと数字の連続。意味がわからない。

《でもこれ別プログラムで再生すると、こんな言葉に》

 

多様性。

 

微かに胸が騒いだ。何だろうこれは? 送ってきた不明の相手は、誰かのHPだろうか。矢崎とネット上で繋がる‘‘フレンズ’’達にも、実は誰かのHPが紛れてる(原文ママ)ことがある。ネット上でやり取りしているだけの相手が、実際は人か人工知能かわからない。

奇妙だった。セキュリティをかいくぐる行為は普通できない。こんなものを送りつける話も聞いたことがない。

 

 

終盤では、鈴木タミラという革命家的な人物の著作が引用されます。もちろん小説内では英雄的に描かれるのですが、もうイデオロギーの問題以前に単純に頭が悪そうとしか言いようのない辻褄の合わない説教*1が延々続き、残念ながらどう考えても高い知性を有する人には見えません。そんな彼女が最後に残したのがこの文章。

 

私達が世界の暴力と圧政を内側から崩壊させる。だから未来の人間達よ、あなた達は自由の空気を吸い、多種多様な喜びの息を吐け。

 

ここだけ抜き出すとまあ格好良いんですが……。

とまあ、この小説のテーマは兎にも角にも「多様性」なのですが、不思議なことにこの小説には「多様な人間像」は全く出てきません。主要な人物はアルファさんを除いてみんなR帝国人、ヘテロセクシュアル。この小説がマジョリティの視点から出ていくことはほぼないわけです。まあ、その例外アルファさんの苛酷な来歴も、結局は前述したとおりのくだらないラブロマンスに回収されてしまうわけですから、もはや嘆息するしかありません。

加えて、中村氏はこの小説内で様々な人々に対して「筆誅」を加えています――ソーシャルゲームプレイヤーは人非人、ネットユーザーは愚民、アニメ好きも馬鹿、右派は冷酷、云々。彼の提示する「多様性を大事にする世界」にはリベラル知識人(勿論皮肉で言っています)以外の人間は誰一人存在しなさそうです。もっと言わせてもらえば「強い国家」に自己の存在の基盤を求める人々を嘲笑するわりには、その中村氏自身が「リベラル」とか「国家との対決」とかいった物語と完璧に自己同一化してしまっているような印象さえ受けます。 

 

 まとめ

 「文章を読む」ということにこれほどの不快さを伴ったのは百田尚樹の『カエルの楽園』以来でした。こんなものを書いておいて、なぜあれほど他者に対して傲慢不遜な態度を取れるのか全く理解に苦しむところですが、まあ「リベラル」のお友達同士でキャッキャやってて楽しそうだし、もうそれで良いんじゃないですか。まあ、 私はそういう明らかに質の低いものを「仲間が書いた」ということを理由に持て囃す心底気味の悪いカルト共同体には加わりたくないので、家に帰って彼等が馬鹿にしまくっている美少女アニメソーシャルゲームでも楽しみます。

最後に、私がこの小説の中で唯一同意できる一文があったので引用しておきます。

 

私達は相容れない。永遠に。

 

 

 

 

 引用箇所は全て中村文則『R帝国』(中央公論新社・2017年8月初版)より

R帝国

R帝国

 

 

 

*1:詳述しませんが、この説教は一見良いことを言っているように見えて、実のところは強者や既得権益層の傲慢さに溢れた欺瞞そのものです。構造的な貧困の問題を扱っていたはずが、いつのまにか非常に矮小化された「善意」の問題へとすり替えられ、弱者は強者の「善意」に縋って生きていればいいんじゃないのというような結論へと至ります。

『打ち上げ花火、下か見るか? 横から見るか?』感想と個人的解釈――酷評するか? 擁護するか?

 

困惑と悪評

 8/18に公開され、公開当初からネット上などで(かなり控えめに言って)賛否の分かれる作品として話題となっている『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』観に行きました。

(原作となるドラマはまだ観ていませんが、この文章を書くにあたってノベライズ版を一応読みました。こっちは正直あまり面白くなかったです。やっぱり映像でこそ映える作品じゃないでしょうか)

 

 

 夏休みだけあって、若年層を中心に様々な層の観客が来ていました。

 

子供連れの夫婦、リア充カップル、眼鏡にチェック柄の今どき珍しいぐらい古典的なアニメオタク、恐らくは原作ファンと思われる40代50代ぐらいの客までいろいろ。この映画の負っている期待の大きさを感じました。『君の名は。』の成功も記憶に新しく、デートムービーとしての機能を求める客も多かったのでしょう。

 

しかし、上映終了後の観客たちの反応は、一言で言えば「困惑」。どういうこと? どういうこと? と聞く娘に「いや俺にも分からん」と応える父親、これは脚本に問題があるねえ、などとぼやいて苦笑するチェック柄アニメオタク、「ドラマとは違うよねえ……」と溜息交じりに感想を言い合う40代夫婦、明らかに気まずい雰囲気のままに劇場を後にするリア充カップル……各各「よく分からないものを見ちまった」という雰囲気を共有したままに、皆そそくさと劇場を去っていく様子は、明瞭にこの映画の「失敗」を物語るものだったように見えました。要はどういう客層の、どういう希望にもうまく応えることができなかった、ということです。このいかんともしがたい宣伝のイメージとの乖離、期待外れ感は確かにネットの評判通りです。

 

この映画は、実際には「考察」と称する妄想を得々と語ることを趣味としている連中向けの映画であり、説明不足をあえて楽しむような類の映画であり、エヴァンゲリオンみたいな「意味深」がずらりと並べられた映画です。

そしてこれ、僕は嫌いじゃないです。というか好きです。勿論、この映画が映画として多数の問題を抱えた、あまり出来の良くない作品であるというのはその通りでしょうが、しかし、それを補って余りある魅力を秘めた作品でもあると思っています。(まあ、これも原作のことを知らずに観たからから言えるだけのことかもしれませんが……)

以降激しくネタバレします。

 

超絶美少女・なずな

 この映画、兎にも角にもヒロインであるところのなずながもう滅茶苦茶にかわいいです。かわいいだけでなく、ちょっとエロチックです。序盤からスクール水着姿を披露したり着替えシーンがあったりと、サービスには事欠きません(これ、きっと女性客はドン引きしたんじゃないでしょうか。ファミリー映画としてはこの時点で失格でしょう)。広瀬すずさんの声も、また何やら底知れぬ色気を漂わせています。個人的には、同じくシャフトが制作したアニメ『化物語』に出てきた戦場ヶ原ひたぎというキャラクターを思い出して、ちょっと懐かしい気分にもなりました。どうでもいいですが。

 

花火は丸いか平たいかなどというバカらしい言い争いに夢中になる男子どものガキっぽさに比して、彼女はどこか中学生離れした、オトナの雰囲気をもっています。単純に典道くんより背丈が高いというのもありますし、水泳では典道くんより祐介よりずっと速く泳ぎ、また「家出」を「かけおち」と言い換えたり、ワンピース姿を披露して「16歳に見えるかな」と呟いてみたり。典道くんたちにとって、彼女は自分の知らないオトナの世界に足を踏み入れた少女として、どこか超越性を帯びた女神のような存在として立ち現れます。

 

しかし、彼女が彼らにとっての女神たりうるのは、実は家族問題から逃げ続けている限りにおいてです。やっぱり中学生は親の重力に逆らえないのです。母親に腕を掴まれたなずなは、これまでの描写とはうって変わって、激しく暴れ抵抗します。力負けして親に引き摺られながら「助けて、典道くん」と叫ぶ姿は、オトナとは程遠い、幼い女子中学生の姿そのものです。で、それを見た典道くんは、彼女の誘いを無碍にしておいて、平気な顔で彼女が連れ去られていくのを傍観している祐介をぶん殴り、時を巻き戻す力(?)を秘めていると思われるもしも玉(?)を花火大会のポスターに投げつけ、タイムリープ開始というわけです。

祐介の言動にもまたちょっと不思議なところがあるのですが、それは置いておくとして、個人的に注目したいのは、この決定的に物語が動く場面において、なずなも親という現実を前に一人の子供でしかないという強烈な印象が与えられている点です。

 

彼女が綺麗でいられるのは「家出」「かけおち」という可能性、「もしかしたら」という期待の世界の中を生きているときであって、現実がそこに追いついたとき、彼女の超越性はたちまち消失してしまう。ここから、美しい未開の可能性と酷薄な現実、という構図が立ち現れ、典道くんとなずなは、その現実を振り切って、可能性、「もしかしたら」の側へと逃避行を続けていくことになります。

 

現実から遠く離れて

 原作がどうなのか知りませんが、この映画、ストーリーは本当につまらないです。まずタイムリープの設定がほぼ説明されず、いったい彼らがどういうルールの下に何をやっているのかという基本的な部分すら理解しがたいつくりになっています。これは本当に観ていてストレスでした。というか、そもそも映画の根幹を成す典道くんとなずなの関係性もうまく描けておらず、ふわっとした「意味深」な台詞でしか説明されないため、物語として足腰が弱く、タイムリープの動機も衝動的なものでしかなくなっているところがあります。

 

ではこの作品の魅力は何かといえば、タイムリープを行えば行うだけ、映像的にも物語的にも、その虚構性が増大していくという構造にあります。歩道と草原の間の溝を飛び越える、プラットフォームから電車に飛び乗るなど「越境」のイメージが作中何度も強調されるように、彼らが「もしこうだったら……」を積み重ねるたびに、美しく幻想的な世界はその奥へ奥へと彼らを誘い、現実は母親や祐介たちと同じように、どんどん後方に遠ざかっていく。

 

最初のタイムリープではせいぜい打ち上げ花火が平たくなる程度ですが、次のタイムリープ以降はいよいよ現実離れし始め、なずなが歌を歌うと窓ガラスにお姫様の恰好をした彼女が映ったり、どこからともなく馬車が出てきたり。挙句に電車で海を渡り、「典道くんの作った世界」、彼らにとってもっとも都合の良い世界にまで行ってしまう。今まで自分たちを追ってきた祐介や母親のような邪魔者はもう追ってきません。願望の終着点、他者を排除した二人のセカイ。この辺はとてもスリリングに仕上がっていて、観ていてどきどきしました。

 

しかし平べったい打ち上げ花火が存在しないように、彼の作った世界は所詮幻想でしかありません。ふとしたきっかけでもしも玉(仮称)は花火として打ち上げられてしまいます。もしも玉(仮称)は膨張して破裂し、そして各々の「あり得たかもしれない幸せ」が破片として降ってくる。本編最大のクライマックスです。幻想が極致に達したところで崩落する、という構成が素敵です。この映画のモチーフである打ち上げ花火の儚さとも重なりますし。

 

例のラストシーンをどう解釈するかにもよりますが、この映画は実は非常に古典的な「行きて帰りし物語」だと思います。越境と帰還というイニシエーションを経て、何かを喪失し、何かを得て「成長」する物語。「成長」が、開かれた可能性の中から何かを選び取り、他の可能性を喪失していくプロセスであるなら、それには常に「あのときそうしていれば……」というifへの憧憬が付きまとうはずです。ならば、そのifへの憧憬の象徴たるもしも玉(仮称)が砕け散り、典道くんがその破片の一つを手にするというシーンは、まさにひとつの「成長」の比喩に他ならないでしょう。

 

また同時に、もしも玉(仮称)の別の一欠片を見た典道くんの友人たちは、それぞれの恋を大声で叫びます。「あり得たかもしれない幸せ」を、単なる後悔やセンチメンタリズムではなく、未来への可能性という形で描いたところにもこの映画の良さがあると思うのですが、どうでしょうか。

 

この映画最大の謎、ラストシーン

 そしてラストシーンです。典道くんの不在。草原に揺れる薺。

 

この幕切れはちょっと不気味な印象もあり「典道くんはifの世界から帰ってこられなくなった」と考えている方も多いようですが、僕としてはこれはちょっと違和感のある解釈です。

だって、もしそういうことにするならば、普通に考えて、事前にそういったリスクやペナルティを暗示、ないし予感させる場面が入るはずだと思うからです(あるいはあの水死体のシーンなどがそうなのかもしれませんが……)。そして「危険を冒してでもやり直すべきか」という典道くんの迷いや躊躇いがあってしかるべきでしょう。そうでなければ、この作品は、典道くんがただ単に後出し的なルール、理不尽な怪奇現象に終始振り回されていたというだけの、全く意味不明で虚無的な恐怖映画になってしまいます。

 

美しいifを生み出してきた装置であるもしも玉(仮称)は花火として破壊されてしまったはずですから、もうみんな現実の世界に戻ってきたんじゃないだろうかと僕は思います。だからなずなは既に転校してしまっていて、もういない。そもそも、なずなは典道くんより先に呼ばれるはずなのに、名前を呼ばれてもいないわけですし。

一方で、典道くんはあのとき破片のひとつを手にしています。即ち二人の幸せな未来。

 

といって自分の解釈にもまったく自信が持てないのですが、これもやっぱり、典道くんはもしも玉(仮称)のない世界の中で、それでも目指すべき未来を見つけた、ということじゃないでしょうか。だから、転校したなずなを追いかけに行ったのではないか。過去への可能性を喪失し、未来への可能性を手に入れたということなのではないか――ちょっとハッピーエンドの方向に寄りかかり過ぎた理解でしょうか。

 

最後に

 とは言ったものの、この映画が酷評されている理由はよくわかります。変なところで分かりづらいし、キャラもうまく描けているとは言えないし、間延びした演出は多いし、テンポも悪いし、声優棒読みだし――僕も、映画として質が高いとは決して思いません。

 

しかし、僕はやはりこの映画が好きです。前述したように、まったく万人受けする映画ではありませんが、ハマる人は本当にハマる、宣伝に反して、とてもニッチな映画だと思います。